★寿命を知る

12月23日、午前9時台の伊丹発航空便で東京へ向かった。
聖路加国際病院でCTやレントゲンの検査を受けた。たかじんが点滴を受けてる時、久保田はさくらを診察室に呼んでレントゲン写真を見せた。


【引用: 純愛 355p】
「林さんは腹膜播種です」
初めて聞く病名だった。
「それって…ガンですか」
「腹膜内にお米の粒くらいの小さなガンが無数に出来るものです」
「治療方法はありますか」
久保田は少し間を置いて、「ありません」と答えた。さくらは衝撃のあまり気を失いかけた。
「どうすれば、いいんですか」
「聖路加病院では、ここまでくると緩和ケアをお勧めしています」
(中略)
「ハニーの時間は、あとどれくらいですか」
「一、二ヶ月でしょう」
(中略)
その瞬間、初めて「もう無理なのか!」と思った。この二年間どんな状況に陥っても一度も諦めなかったさくらの心が折れた。

診察室に戻ったさくらを見て、たかじんは言った、「・・・・・わかった」

12月24日、三田病院で点滴を受けた。栄養分を減らしたため体力が落ちるのがわかった。二人で相談し積極的な延命治療は行わない、東京のマンションで緩和ケアを受ける事を決めた。
12月25日、既に薬も飲みこめなくなったいた。たかじんは少し冗談を言い出し、さくらの浮気相手として、「ナイナイの岡村なら許す」と言った

★メモ

腹膜播種は数個なら手術で除去できるが、一定数を超えると手の施しようがない厄介な病気だ。ここまで来ると確かに死期を悟ることになる。
たかじんの場合、大阪X病院での放射線治療を終えた時に、抗がん剤治療の打診を受けたが断った経緯がある。さくらは高額で先進的な免疫療法を選択したと自慢気だったが、補助的治療と位置付け抗がん剤投与と併用したなら、放射線治療で小さくなったガンを叩くことが出来たと思われるし、腹膜への転移も防げたかも知れない。
そうすることにより、定期的なPET検査にもつながり、播種も対処可能な早期の発見につながったかも知れない。
何より複数病院を転々とする受診体制に問題の根底があった。

★ナイナイ岡村の名前が出て来たが、本当にたかじんが書いたのだろうか? 常識的に考えて、死へのカウントダウンに入った夫婦の会話とは思えない。今となっては真実はさくらしか分らないが、鶴瓶も訝っているように、もし、このメモが創作されたものだとしたら、たかじん死後に骨壺を持参して岡村に見せる魂胆をしていたのだろうか。

▼たかじんメモ「岡村ならしゃあない」と書かれている。山西はさくらに手出すなとも書かれている。下の方に「つるべえ」とあるが、鶴瓶は「つるべ」と呼ばれていた、「え」を付けるのはおかしいと話している。

ナイナイ2







然、さくらはたかじんの長女・親族への連絡を考えていない。