再発

たかじん本 付箋だらけの殉愛
たかじんの最期を書いたノンフィクション小説「殉愛」の信憑性は地に堕ちた。
次々と明かされるさくら未亡人・驚愕の正体とは・・・。

減薬と免疫細胞療法

★減薬を決断

7月1日X病院での放射線治療(全36回)が終わり、一、二ケ月経過後の治療測定を待つことになった。医師からはその間の抗がん剤投与を勧められるが、さくらは抗がん剤治療は放射線治療と併用しないとほとんど意味がないので受けないとし「気休めみたいな治療はしたくない」とも記されている。
考えていたのは「免疫療法」への転換だった。

まずはアカシジアを何とかしたいと久保田医師とJR札幌病院の鶴間医師に、服用している薬のデータを送って相談すると「減薬すべき」との意見だった。一気になくす方法もあるが反動もあるため神経科の医師の診断を必要とする。


【引用: 純愛 300P】
JR病院の鶴間医師が「知り合いの神経科の先生を紹介してあげる」と言ったので、思い切って札幌に行ってみようかと考えた。七月に入って暑くなってきていたので、涼しい札幌に行けば気分転換にもなるかもしれない。
たかじんに提案すると喜んで賛成した。しかしさくらにはひとつ気がかりなことがあった。彼の精神状態には大きなムラがある。もし札幌行きの飛行機に乗っている最中に、最悪の精神状態になったらどうしょう。万が一、暴れだしたりしたら大変な事になる。自分一人で連れていくのは無理かもしれないと思った。
「ハニー、札幌にはKさんも一緒に来てもらう?」
「Kは嫌や。二人で行く」
さくらは自分一人でなんとかしようと思った。


7月8日、伊丹空港出発前にKから電話があり、一緒に行くことになった。飛行機に乗る前にたかじんに精神安定剤を飲ませたので彼はすぐに眠った。

7月9日、神経科診療所を訪ね、たかじんの症状を訴える。

【引用: 純愛 303P】
「薬の副作用なんか気にせずに、どんどん薬を増やせばいい」
さくらは一瞬耳を疑った。小太りの医師は構わずに続けた。
「今、辛いのが嫌か、副作用が嫌か、でしょう。どっちもなくす方法はない。じゃあどっちを取るかです。今、辛いのが嫌でしょう。だったら薬をバンバン飲んで、その辛さを消せばいいんです。副作用は仕方ない。そのうちに慣れます」
さくらの隣に座るたかじんは不快げな顔をしていた。
診療所を出てタクシーに乗った途端、たかじんは「あいつは頭がおかしい!」と吐き捨てるように言った。
(中略)
しかし、さくらは思い切った減薬に挑戦してみようと思った。
(中略)
生活に工夫をして睡眠薬と精神安定剤をできるだけ与えないようにすると、日を追うごとにたかじんの頭は政情に戻ってきた。抗がん剤の副作用が抜けてきたことにより、吐き気止めを使わなくなったのも大きかった。

急激な減薬は危険性を伴うと知っていながら、さくらの独断で行動に移したようだ。頭が正常に戻ったとあるが、文中にあるように抗がん剤副作用の低減がに起因するだろう。
ガン患者に迫られる決断の一つに、クオリティを取るか完治・延命を取るかが上げられる。腹膜播種が命取りとなったたかじんの場合、それが忍び寄っていたこの時期は、目先のクオリティより優先される手だてが有ったと悔やまれる。

7月23日、三田病院でPET検査を受ける。久保田医師からガンが縮小していると告げられる。
この日、採取した血液と以前に手術で摘出して保存していた食道ガンの細胞を、久保田が三重大学に送って入れた。いずれも樹状細胞ワクチンを作るために必要なものだった。

7月24日、神戸某クリニックで、「WTI」「Mac1」と呼ばれるワクチン治療を行った。

(後日、三重大学から細胞検体が見つからなかったと連絡が入る)

★X病院

X病院から抗がん剤治療続行を問われて断わったのはミスだと思う。理由を放射線治療と併用しないと効果がないとしているが、医師の言うように今回の放射線治療は1-2ケ月の経過観察をみないと効果測定が出来ない。その間、目に見えないガン細胞を叩く意味でも、抗がん剤治療が有効との説明を受けているはずだ。特に再発後の治療なのだから慎重を期すべきであった、

純愛では大阪のX病院と札幌の神経科診療所の医院名と医師名が伏せられている。電話で問い合わせしただけのところでさえ名が上げられているのにだ。これは何を意味しているのだろうか?
X病院はさくらが突発性難聴と診断された際に、たかじんとの同室入院を断られた病院で、その後さくらは治療を諦め左耳は永遠に難聴となったとされており、他にも対応等について不満を述べている。

もしかするとさくらが難聴を患ったのは事実でない可能性が有る。 事実でないため病院名・医師名明らかにしない選択をしたのではないのか?
匿名掲示板なので真偽は不明だが、さくらの高校時代を知るという人物から、当時から難聴だったとの書込みをがあったことを、ふと思い出した。
7月23日、放射線治療の一ヶ月健診を東京の三田病院で受けている。結果はガンが縮小していたのでX病院の治療は成功と言えるだろう。だが治療を受けたX病院での検査が本来だと思う。
さくらにとって都合がいい病院ではなかったのだろう。

★免疫療法の処方法

▼たかじんが受けた免疫療法の説明(Mrサンデー・殉愛特集)免疫療法1







代替として免疫療法のみの治療とは不可解な判断だ。
ここで触れておくと、「免疫療法」は第四の治療法として注目を集めているが、免疫療法による効果はまだ確立されていないと言っていい。まだ大学病院でも治験の段階であり、厚生労働省の保険適用となっていない。所定の効果が認められているのなら保険適用治療法の位置を得ているはずだ。

自身もガン発見時から免疫療法を実施しているクリニック数ヶ所で説明を受けた。各クリニックが公表しているデータによると、ステージが上がる程に効果測定値が極端に低く、ステージⅣの身に有効と思えないこと、組成された細胞が最終的にガン化する(特に樹状細胞)場合があるとの説明を受け断念した経緯がある。主治医から免疫療法施術はクリニック系が中心ですよね、と懐疑的に言われたことも、断念した理由の一つだった。

かつ、全てのクリニックで抗がん剤との併用を強要された。仮に効果が有ったとして、それが抗がん剤によるものなのか、免疫療法によるものなのか判別が付かないことを意味する。
抗がん剤治療は副作用で生活クオリティが維持できないリスクが伴い、純愛によるとたかじんも悩まされているが、免疫療法は副作用抑制効果も大きなセールスポイントとなっている。たかじんもその使い方をしたのなら理解できるが、免疫療法のみを選択したことで余命を縮めたと言っていいだろう。

結果的に9月から瀬田クリニックで免疫療法を受けた。しかし全クールを終える前に他界する。
「気休めみたいな治療法はしたくない」と言っていながら、選んだのは「気休め」そのものだったのだ。愚か者と言いたいところだ。
もしかすると、さくらは効果がないことを判っていて選択し、再発時久保田医師に「何もしないと半年の余命」と宣告された、その半年を狙ったのかも知れない。一応、何かをしたアリバイだけは残る。

▼(参考) がん免疫療法は奇跡の治療法か
http://apital.asahi.com/article/kiku/2013090300001.html

アカシジア

★アカシジア

5月27日、X病院で放射線治療とと抗がん剤治療が始まった。4日間の抗がん剤治療を終えると退院し、放射線治療は通院で行うことになっている。
抗がん剤の副作用は吐き気が強烈で、口内炎、腹痛、発熱も伴い、栄養は静脈点滴で補った。退院した翌日にたかじんが強い吐き気を訴えたため病院へ行ったが、吐き気止めと睡眠薬を出してくれただけだったと不満をもらしている。
次第にたかじんは精神状態の異常をきたし、じっとしていられなくなったり、口からよだれを垂らすようになった。さくらがネットで調べると「アカシジア」じゃないかと思いX病院に質問すると、それを知らず、吐き気からくる辛さだと説明した。さくらが服用している薬を調べると、アカシジアが起きやすいと知りX病院の医師に訊くと、薬剤師が大丈夫と言っているとの返事だった。
さくらはX病院に不信感を持つようになる。薬の件、対応の件、たかじんが治療を受けている時にサインや写真撮影をせがまれること等を理由にあげている。


【引用: 純愛 292P】
「テレビが怖い」と言い出した。
「どうして観ないの?」
さくらが訊くと、彼は「申し訳ない気分になる」と答えた。
「それと、ぼくはもうここには帰られへんのやと思うと、辛い」
「また戻れるよ。必ず戻れる」
彼は首を振った。
「もう無理や、戻っても、喋られへん」


たかじんは抗がん剤の副作用でろれつが回らなくなっており、テレビ番組を観なくなった。
精神状態も完全におかしくなっており、さくらのワンピースをベッドに置いて添い寝したり、パジャマのまま浴槽に入ったりすることもあった。『それで買い物にも行けず、何度かはKマネに頼んだが、その度に嫌そうな顔をされた』
睡眠薬を飲んでも三時間くらいしか眠れないようになっていた。いつしか昼夜が逆転し、さくらは殆ど睡眠を取れなくなっていた。

★服用薬

この頃のたかじんは、吐き気止めとしてプリンぺラン、ナウゼリン、コントミン、精神安定剤としてジプレキサ、睡眠薬はセレネース、ロヒプノールを服用している。


放射線治療をめぐる転院

★東大病院

5月10日、三田病院で放射線治療の説明を受けるが、若い医師の説明が事務的である事に不満を持ち久保田医師に電話をするが、同僚をかばうような言い方に不満が増幅する。
さくらは本で調べた東京大学医学部付属病院放射線科准教授に電話を入れた。中川に事情説明し話していると、久保田医師とは以前同僚だったことが判り、「これも何かの縁です、月曜日にカルテを持ってきてください」と言った。
さくらがCD-LOMを持参して事情説明し、「林一」は偽名で本名はやしきたかじんだと告げると、中川は名前だけは知っていた。「本来は東大病院で手術した患者以外は受け付けないのですが、明日、本人を連れてきてください」と言った。

5月14日、三田病院で2回目の通院放射線治療を終え、東大病院へ向かった。中川は病院の枠を越えて自分が担当すると話し、余命を聞いたたかじんに、「この病気は厳しいです。データで言えば短くて半年、長くて二年、治療は早ければ早い方がいい」と言った。

5月19日から中川医師が監修した治療計画を基に三田病院で放射線治療を再開したが、さくらは三田病院の放射線機械に不満だった。患部に一定方向から一定時間放射線を当てる方式の物だからだ。最新式のものは180度回転してピンポイントで患部を照射するので、他臓器の被曝が減少する。

5月24日、さくらはその機械を持つ大阪府立成人病センターへ行き説明を受けるが、そこは個室の用意が出来ないと言われた。担当した西山医師がX病院なら同じ機械があり、大きな病院なのでプライバシーが守られると紹介してくれた。西山医師がX病院に同行して治療計画を立て直してもらってくれた。翌週からの入院を決め、三田病院久保田医師と東大病院中川医師に断わりを入れた。

★転々とする病院

最終的にX病院で放射線治療を受けるまでに四病院が関わっている。たかじんは歌手・タレントであり喉は大事な商売道具、患部周囲への悪影響が少ないピンポイント照射式機械を選ぶのは必然と言える。
殉愛によると三田病院で治療を始める前から機械に対する不安を抱いていたとある。それなら最初から新式機械を備えた病院を選ぶのが賢明な方法と言える。東大病院では神戸出身の医師に、大阪府立成人病センターでは多くのスタッフに、林一がたかじんであることが知られており、さくらが言う病気の実態を知られたくない考えに逆行しているのだ。
東大病院中川医師の配慮を簡単に裏切ることも無く済んだだろうし、正常に説明した三田病院の若い医師へのお門違いな苦情も発生しなかった。
この間、たかじんは東京-大阪間を二度往復することになり、体力を落としているたかじんにとって負担が増したであろう。後述するがFridayされる事にもつながる。
さくらは自身の奮闘ぶりをアピールしたいのだろうが、第三者の見地から言うと「思慮が浅い行動」と思える。

5月27日、X病院へ入院する日である。そしてさくら31才の誕生日でもあった。


【引用: 純愛 287-289P】
明け方の四時、さくらがキッチンで朝食の支度をしていると、たかじんが目を真っ赤にしてやってきた。泣いたあとだというのすぐにわかった。彼はさくらに一枚の紙を手渡した。B6サイズのメモ帳を破って書いた手紙だった。
文字は涙で滲んでいた。そこにこう書かれていた。


何万語、何億語、
言葉を探しても出てくる言葉は、
「さくら、ありがとう」
こんな苦難な一年をほく以上に
のり越えてくれて、
戦ってくれて、ぼくに取って
心の支えになってくれて、
本当にありがとう。
誕生日にまた何も出来ないけど、
必ず元気になってハニーと
楽しい時間を迎えるから
待っていてね。
又、今日からヨロシク。愛しています。
To Sakura Love                 (原文ママ)


▼このメモは「偲ぶ会」さくらの挨拶の中で読み上げられた。
手紙2


















★5月16日、大阪へ荷物を取りに帰る際、品川駅新幹線ホームでFriday記者に写真を撮られている。さくらは誰かがリークしたと思っている。後に続く名前は"K"とでも言いたげだが、自分は違うと睨んでいる、もっとさくらに近い人達でないのか?

品川2












★5月19日、大阪から東京へ戻る機内で偶然に鶴瓶と会う。心配してたと言う鶴瓶にたかじんは「なんとか生きてるわ」と答え、昔話しを懐かしんだ。最期の鶴瓶との時間だった。


【引用: 純愛 284P】
鶴瓶はさくらを見て不思議そうな顔をした。
「前に会いましたよね。覚えてります?」
「初めてお目にかかると思います」
「そうやったかな、すんません」
鶴瓶は笑った。
「奥さん、こいつむちゃくちゃやけど、ええ奴なんや。たかじんを頼んます」
「はい」
「何かあったら、いつでも電話してや」


二人は電話番号を交換した。

ガン再発

★長くなかった復帰

4月21日、安全地帯のコンサートに行くが、「しんどい」と言い出しコンサートを途中退席した。4月25日、「胸いっぱい」の収録から帰ったたかじんは胸の痛みを訴え、翌日の「そこまで言って委員会」の収録から帰った時も不調を訴えた。三田病院の久保田医師に連絡すると「心筋梗塞か狭心症かもしれない」と言われ薬を服用するが一向に治まらなかった。4月30日、検査の為たかじんとさくら、Kマネは東京の三田病院へ向かった。


【引用:純愛 268P】
検査室から久保田医師が出てきた。彼の深刻な表情を見て、さくらは事態が容易でないことを悟った。久保田は自分の胸のあたりを指差しながら言った。
「気管支の近辺に三つ再発しています」
「再発って何すか!」
Kが食ってかかるように言った。
「治療はできるんですか?」とさくら訊いた。
「抗がん剤治療と放射線治療を行います」
(中略)
彼の余命はどれくらいありますか?」
「余命というのはあってないようなものです。五年以内に再発すると、あとは放射線治療と抗がん剤治療しかありません。これが効いたとしてしても、半年から、よくて来年の夏・・・」
(中略)
まもなく久保田医師が部屋に入ってきた。
「林さん、検査をしてみたら、腫瘍ができていました」
たかじんの顔色が変わった。


その後、三人はマンションに戻ったが、今後の治療について話をするため、さくらが病院へ行き久保田医師と会う。
治療をしなければ、半年も持たないでしょう
「治療をして二年生きられたケースもまれにあります。治療をしても効果が出なければ、生きられるのは、あと半年くらいでしょう」と余命宣告を受ける。
さくらは涙でぐしゃぐしゃになつた顔で言った。「抗がん剤治療は意味なかったんですね!」久保田医師は黙ってうつむいていた。
具体的な治療は週明けになるとの説明を受け、痛みを押さえる麻薬を受け取ってマンションに戻り、その日の夕方、新幹線で大阪に戻った。

余命宣告は本人が望まない場合は別だが、以後の治療を効果的にするために宣告するのがマターとなっている。自分の場合もセカンドオピニオンを受けた大学病院で、抗癌剤治療しか出来ないが余命を言いますかと訊ねられた。手術でしか完治は望めないと判断していたので、それが出来ない病院で宣告を受けるつもりはなかったので断ったが、もう一つの本心を言うと、医師の言い方が弄んでいるように感じたからだ。しかし、主治医から半年を宣告されたのをきっかけとして東京の名医と巡り合え、今、こうして健康な毎日を過ごすことが出来ている。完治した今となっては、なんと卑屈になっていたものかと思うが。
たかじんの場合も、本人なり親族や側近が余命半年を知っていたなら、違った治療方針を選択し寿命が延びた可能性が有り得たと思う。そうしなかったさくらの選択ミスは罪深い。また、妻でもない者だけに宣告した久保田医師と、正確な家族関係確認を行わなかったと見られる三田病院の管理体制は批判されて然るべきである。

★PET

実は2月のPET検査で小さく光った部分があったが、腫瘍マーカーが正常値のため問題なしと診断されていた。さくらはもしかしたら小さな再発部分があったのでないかと疑っている。
自分の経験で言うと、「腫瘍マーカーに表れないガンもあるので、PET検査等は慎重を期す」と担当医から言われている。たかじんのケースは小さく光るものが検出されたにもかかわらず、何故精密検査を実施しなかったのか疑問が残る。

抗がん剤については投与日数とサイクルからの想像として、シスプラチン、或いはフルオロウラ汁シルとの併用でないかと思われる。これは食道ガンに用いられる最も効果が高い標準抗がん剤である。 (食道ガン治療)

★告知

2013年5月8日、たかじんの事務所P、I、S名で、体調不良により今後の活動は未定と告知を行った。


所属事務所は「主治医による検査診断の結果、疲労による食欲不振や睡眠不足などから起こる体力の低下がみられ、しばらくの間休養を要するとの指示が出ました。苦渋の選択ではありましたが、本人も今は大事をとって休養に専念する所存でおります」と報告。今後については「主治医とも相談しながら改めてご報告させていただきます」として、復帰時期は未定という。 (当時のニコニコニュース)
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